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東山道武蔵路跡保存整備工事実施設計のとんでもない変更、図面をアップ [4.東山道武蔵路跡保存整備]

「第2回東山道武蔵路跡保存整備工事の市民説明会」が8/21午前中、いずみプラザであったので出席しました。
8/21付けの観察日誌のページでもお伝えしたように、7月の説明会では大変よくできた実施計画素案が示されたのに、8/21の説明会では、道路遺構表示がとんでもないものに変えられておりました。

<7月説明会と8月説明会の経緯概略>
▼7月の素案は、歴史公園として東山道武蔵路の遺構表現も的確で、かつ、住宅地の中の公園としての快適性も十分に考慮されており、大変よく考えられた設計になっておりましたが、7/5の説明会に出席した「福祉施設事業者」から、「遺構表示のことなど聞いていない、教育委員会にだまされた、全面芝生にせよ」との強い主張がなされました。
▼とはいえ、この計画の経緯から言って、事業者が遺構表現について了解していないはずはありません。最初から東山道武蔵路跡には建物を建てず、史跡公園として整備することによって遺跡を保存・活用することが前提で、そのために協議会を作って議論し、地区計画(都市計画)をかけた上で事業者を公募(コンペ)で選考したのですから、事業者は当然、これに従わなくてはなりません。ですから、事業者エゴなど通るはずがないものと思って8月の説明会に出席いたしました。
▼ところが、この説明会で出てきた素案は、道路遺構の部分が芝生で、芝生の両側が、西側のマンションと東側の老人福祉施設側から利用できる舗装の遊歩道という構造です。つまり、道路遺構の部分が草地で、その両側が舗装道路となっていて、まさにあべこべなのです。
芝生といっても吹きつけ方式による草地ですから、夏は雑草の成長に草刈が追いつかず、草丈の伸びた草地状態になります。これでは、肝心な古代道路遺構は、両側に舗装された遊歩道の間にはさまる「中央分離帯」にしか見えません。解説板の読めない子供たちには、東山道は道が右左に二本あって、現代の高速道路みたいに、往路復路に分かれている道路だったという間違ったイメージを植えつけてしまいます。

実施設計の変更の背景については、また後日あらためて書きますが、とりあえず、7月の図面と8月の図面を掲載しますのでご覧ください。
7月の図面と8月の図面のそれぞれ、JPEG画像とワードファイルをアップしておきます。閲覧、印刷等、見やすいほうをお選びください。

■7月の図面
●黄色いラインは、第一期の道路側溝の表示。茶色いラインは第三期の道路側溝の表示。両方とも弾性舗装で色をかえて識別されるようになっている。
●第一期の道路側溝に挟まれた道路部分を弾性舗装にして、幅12mの幹線道路だったことを表現。
●道路標示以外は全面芝生(草地)で、一部がウッドデッキ。
2010年7月4日5日説明会に出された実施計画図面画像.jpg

2010年7月4日5日説明会に出された実施計画図面.doc

■7月の図面拡大
2010年7月4日5日説明会図面画像拡大.jpg

7月4日5日図面拡大.doc

■8月の図面
●第一期の東の側溝と、第三期の西の側溝の間が芝生(草地)になっており、道路幅12mが視覚的に捉えにくい。
●道路遺構の両側のうぐいす色の部分が弾性舗装の遊歩道。側溝表示の黄色と茶色、遊歩道のうぐいす色と三種類の色の帯状の舗装が隣り合い、何が何だかわからない表示となっている。
●道路が草地で、まわりが舗装という、あべこべな表現になっており、これを見て草地の部分が古代道路だとは誰も思わない。
2010年8月20日21日説明会に出された実施計画図面画像.jpg

2010年8月20日21日説明会に出された実施計画図面.doc

■8月の図面拡大
2010年8月20日21日説明会図面画像拡大.jpg

8月20日21日図面拡大.doc

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旧四小跡地東山道保存・整備計画2月の図面とその後の変更 [4.東山道武蔵路跡保存整備]

東山道武蔵路の保存・整備計画図面の変遷をたどってみましょう。

今回、7月と8月に行われた実施設計素案の市民説明会以前に、今年2010年1月31日と2月1日に、「旧市立第四小学校跡地に所在する古代東山道遺構の保存・活用整備計画」中間報告市民説明会が開催されていました。

私はこの時に説明会には出ることができなかったのですが、国分寺市教育委員会が2010年2月にまとめた「旧市立第四小学校跡地に所在する古代東山道遺構の保存・活用整備計画」を、国分寺市のホームページから見ることができます。

市ホームページ 旧第四小学校跡地に所在する古代東山道遺構の保存・活用整備計画:
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/keikaku/4186/011075.html

旧第四小学校跡地に所在する 古代東山道遺構の保存・活用整備計画(pdf)
(平成22年2月国分寺市教育委員会):
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/dbps_data/_material_/localhost/700000/s703000/TosandoSeibikeikaku.pdf

その2月の時点での計画図面をアップします。
2月の図面と7月の図面の比較、7月の図面と8月の図面の比較も載せておきます。

■2月の図面(旧四小跡地全体)
2010年2月の保存・活用整備計画図画像.jpg

2010年2月の保存・活用整備計画図.doc

■2月の図面拡大
●南側に植栽はあるが芝生はなく、全体がコンクリート平板またはインターロッキングブロックの貼り分け。
●第一期の溝がうすいオレンジ色、その後、道路が西側に少し移動した第三期の溝が薄茶色で表現されている。
●第三期の時代になって、第一期の溝にかかる場所に竪穴住居が建てられていたことを、色分けで表現してある。
2010年2月の保存・活用整備計画図画像拡大.jpg

2月図面拡大.doc

■2月の図面と7月の図面の比較
●大きくかわったのは、全体を覆っていたコンクリート平板またはインターロッキングブロックの貼り分けが取りやめになり、道路遺構・道路側溝跡部分と住居跡部分が弾性舗装(ゴムと砂を混ぜた素材)の色分けになった点。
●それ以外のところは芝生(草地)にして緑が多く確保された。
2月図面と7月図面の比較資料画像(畑中加工).JPG

2月図面と7月図面の比較資料(畑中加工).doc

■7月の図面と8月の図面の比較
●道路遺構が草地で、道路遺構の両側が弾性舗装というあべこべの表現に変更されたものが市民説明会で示された。
●芝生(草地)の配置が逆になっただけで、芝生(草地)の面積はたいして増えていない。夏場の照り返しの量はほとんど同じであり、公園としての快適性がよくなっているわけでもない。
●夏場、草地(芝生ではなく雑草地)にされた道路遺構の草丈が伸びれば、溝の表示も見えなくなる。何のための遺構整備なのだか全く本末転倒な上、公園としての使い勝手にも疑問。むしろ悪くなっている。
7月図面と8月図面の比較資料画像(畑中加工).jpg

7月図面と8月図面の比較資料(畑中加工).doc

以上、計画図面の変遷を見ていただきました。

今年2月の図面は、実寸代のジオラマ的な表現に徹しており、全体が舗装材で覆われているので、住宅地の中の公園としての居住性はどうなのかなあ、という気がします。
しかし、この地区一帯は他に公園がない場所ではなく、逆に公園だらけの場所です。福祉施設の東側道路を渡れば、新第四小学校のすぐ隣りに広大な都立武蔵国分寺公園の入り口があります。
公園の中に街があるような場所ですので、史跡公園は実寸代のジオラマでもよいのかなあという気もしていました。

ただ、私の希望としては、武蔵野の草原の中にどこまでもまっすぐに続く、幅12mの幹線道路が体感できるような整備がされれば最高だなあと思っていました。
7月に出てきた実施計画は、まさにそのとおりの表現がされていました。
市のやることには珍しく、といったら失礼でしょうけれど、これは快挙だなあと。
遺構表現も大事だけれど、住空間の一部としての快適性も大事。そのことをずっと言い続けてきましたが、まさにそのバランスが絶妙にとられた良い計画だと喜んでいました。

ところが今回の8月の実施計画では、今までの何もかもが無になるような、とんでもない計画変更です。
公園の中に街があるような地区に草地をひとつ増やし、肝心な遺跡が実感できないようなものをこしらえるとは、いったいどういうことなのかしら。

その裏に、いったい何があったのでしょう。


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四小跡地の東山道武蔵路の特殊遺構について~小野本敦さんの報告から(2010.11.3) [4.東山道武蔵路跡保存整備]

今日(11/3)はいずみホールで行われた国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代-日本の古代道路とその保存・活用-」(国分寺市・国分寺市教育委員会主催)を聞いてきました。
講師の近江俊秀先生、佐藤信先生の講演も大変聞きごたえがありましたが、これについてのレポートはまたの機会に。
今日の基調報告を行った、ふるさと文化財課の小野本敦さんのお話の中に、四小跡地の東山道武蔵路関連遺構として表示されることになっている「特殊遺構」についての報告があり、大変興味深いものでした。

武蔵国分寺跡全体地図カラ-.JPG

東山道武蔵路(旧四小)特殊遺構.jpg

第三期の西側の溝に接するように表示されることになっている「特殊遺構」なるものが一体何なのか、前から気になっていましたが、墨書土器を二つ重ねて埋められたものが潰れた状態で、硬化面の上から出てきたのだそうです。
土器は平安時代のものだとのこと。

埋納状態推定図によると、「久」という文字を丸で囲んだ墨書が書かれた浅いお椀型の須恵器の上に、同じような形のもうひとつの須恵器が、伏せた状態で重ね合わせられています。(お椀の口と口を打ち合わせた状態)

特殊遺構図版.jpg

「丸に久」の墨書土器は、宮城県の多賀城跡山王遺跡から出ており、四小跡地から出たものも、これに非常によく似ているとのこと。
山王遺跡からは、人面土器や人形も大量に出ており、マツリに使われたものだそうです。これらの写真も紹介されました。

土器をふたつ重ねた形状については、宇治拾遺物語の巻十四の十に、「土器を二つうちあわせて黄色のこよりで十文字にからげて土に埋め、呪詛に使った」というくだりがあるそうです。
また、道路で行うマツリとして、道饗祭(みちあえのまつり)、四角祭(しかくさい)というものがあり、道饗祭(みちあえのまつり)とは、京城四隅の路上において、外から来る疫神が京内に入らないよう、道に迎えて饗応するマツリ、四角祭(しかくさい)とは、道饗祭から派生した祭祀で陰陽寮が行うものだそうです。

東山道遺構の道端からこのようなものが出てきたのは、非常に大きな発見だとのこと。
この「特殊遺構」について、今日、はじめて聞いたので、私も大変興味をひかれました。
多賀城といえば、東山道の北の果て、陸奥国府が置かれた場所ですよね。
「丸に久」の墨書土器は、これまで多賀城跡以外からは出ていないそうで、四小跡地の東山道武蔵路遺構から出た「丸に久」の墨書土器が、東山道の北の果ての陸奥から来たものだとすると、いったいなぜ、ここに運ばれてきたのか、陸奥の土器でなぜ祭祀をとりおこなったのか。
あるいは、「丸に久」の墨書土器は武蔵国で作られたもので、「丸に久」の文字に込められた意味合いにおいて、陸奥と武蔵に共通のものがあったと考えるべきなのか、謎は深まるばかりです。

さて、この講演会が終わった帰り道、一緒に受講した友人と30分ほどお茶をした後、スーパーで買い物をして、家に向かって東山道武蔵路の遺構道路を歩いていると、なんと、向こうから小野本さんが一人で歩いてきました。東山道の上で会うとは奇遇です。

基調報告が素晴らしかったこと、「特殊遺構」の土器のお話が大変面白かったなどと感想を申し上げたところ、非常にうれしそうな顔をなさり、丸に久と書かれた墨書土器などの写真を撮るために、自腹で多賀城跡山王遺跡まで行ったのだそうです。
「特殊遺構」については、「もっと面白い話があるので、ぜひ、お話したい」とのことでした。

家に帰ってからあらためて遺跡地図を眺めてみると、四小跡地の東山道遺構の場所は、七重の塔から見て、ちょうど戌亥(北西)の方角にあたっています。
この場所で平安時代、道饗祭(みちあえのまつり)や四角祭(しかくさい)みたいなマツリが行われていたらしいと思うと、本当にワクワクしてしまいます。
是非、詳しいお話を聞きたいものです。

このブログでもレポートしてきたように、旧四小跡地内の東山道武蔵路遺構の表示は、隣接する福祉施設事業者らのゴリ押しによって実施設計がくつがえされ、道路遺構を芝生(草地)にしてその周囲が舗装という、まさにあべこべの表示になってしまうことが決定されてしまいました。
参照:http://bunji-mirai.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301246585-1

しかしこの場所は、単に古代道路があったというだけでなく、東山道武蔵路自体が武蔵国分寺寺域の「結界」としての機能をもち、その四隅のひとつとして祭祀の場であったかもしれないことがわかりました。
古代道路遺構の中でも特に重要な箇所として位置づけられるべき場所が保存され、国の史跡に指定されたことはまことに喜ばしいことですが、それならばなおのこと、適切な遺構表示がされるべきでした。

ふるさと文化財課としても、この表示は決して本意ではないでしょう。
整備完了後は、この歴史公園の現地解説など、多くの人に知ってもらうための仕掛けに力を入れて行くとのことです。

小野本さんら、若い研究者たちの熱意が、今、ひしひしと伝わってきます。



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